仏像専門店仏光 - ぶっこう

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[春雨物語]『天津をとめ』本文 嵯峨のみかどの英才、君としてたぐひなければ、み代おし知らせ給ひしなり。万機をこゝろみ給ふに、唐土のかしこき文どもを、取えらびて行はせ給へば、み世はただ国つちも改まりたるやうになん人申す。皇女の御すさびにさへ、...
03/06/2026

[春雨物語]

『天津をとめ』

本文

 嵯峨のみかどの英才、君としてたぐひなければ、み代おし知らせ給ひしなり。万機をこゝろみ給ふに、唐土のかしこき文どもを、取えらびて行はせ給へば、み世はただ国つちも改まりたるやうになん人申す。皇女の御すさびにさへ、「木にもあらず草にもあらぬ竹のよの」、または、「毛を吹き疵を」など、口つきこはごはしくて、国ぶりの歌よむ人は、おのづから口閉ぢてぞありき。
 上皇、わづかに四とせにて、おり居させ給ひしを、下なげきする人も少からざりき。「今ひとたび取かへさまほしくおぼしおぼしぬらん」と、ひたひあつめて申しあへりとぞ。
 嵯峨のみかどもおぼしやらせて、御弟の大伴の皇子を太子に定めたまひて、上皇をなぐさめ給へるは、「これぞたふとき叡慮ぞ」と人申す。
 やがてみ位おり居させて、嵯峨野といふ山陰に、茅茨剪らずのためしして、うつらせ給へりき。
 これは、先帝の平城の結構を、この邦にては例無し、瑞籬ふし垣の宮居にかへさせしなるべし。されど、長岡はあまりに狭くて、王臣たち、家を奈良にとどめて、通ひてつかふまつるもあり。民はまいてなりしかば、これはあやまりつとおぼして、今のたひらの宮を作らせて、うつらせ給ふなり。土を均して百しきついたて、豊岩真戸、くし岩窓の神々にねぎことうけひて、うつらせしかど、人の心は花にのみうつり栄ゆる物なれば、いつしか王臣の家、殿堂の大いさ、奈良の古きに復させたまへば、老いたる物知りは、「賈誼が、三代のいにしへをしのびて、『まつり事あらためさせよ』と申せしを、賢臣らいさめ奉りしは、まことなりけり」と、漢書のそれの巻さぐり出だして、今をあふぎ奉りしとなん。
 上皇おり居の宮に、若う花やぎ給へば、ただ参る者に、「もろこしのふみよめ」とすすめたうぶ。草、隷よく学び得させ給ひて、多く海舶の便りに求めえらばせし中に、空海を召して、「これ見よ、王羲之がまことの筆なり」と、しめし給へば、おろして見奉り、「これは空海がかしこに在るうちに、手習ひし跡なり。これ見給へ」とて、紙のうらをすこしそぎて、見せ奉りしに、「海が筆」としるし置きたるに、御ことなくて、ねたくやおぼし成りにけん。空海は手よく書きて、五筆和上といひしは、書体さまざまに書わかちけんかし。



 嵯峨天皇の英邁ぶりは、君主として稀有なものであったので、その御代を美事に治められたのであった。あらゆる政を執り行う際に、唐土の優れた文献を取り寄せ前例を撰び出して実行させられたため、その御治世はあたかも国土が改まったかのようだと人は口々に云った。皇女が詠まれる歌さえも、「木でもなく草でもない竹の世の」とか、また「毛を吹いて疵を探す」などと、調子が無骨で、本朝風の歌を詠む人は、自ずと口を噤んでしまう有り様だった。
 上皇が僅か四年で退位なさったのを、こっそり歎く人も少なくなかった。「今一度、帝位を取り返したいと思われておられるのでは」と、額を集めて囁き合ったとのことだ。
 嵯峨天皇も上皇の御心を忖度なさって、御弟の大伴皇子を皇太子とお決めになり、上皇のお気持ちを慰撫されたのは、「これこそ尊い叡慮というものだ」と人々は褒め称えた。
 その後退位なさると、嵯峨野という山陰に、茅葺屋根の端を切らない例えに倣って、お移りになった。
 これについては、先の天皇の平城京の造作を、この国には前例がないとお考えになり、瑞籬、節垣の質素な宮殿に戻そうとなさったのであろう。それでも長岡京はあまりに狭く、天皇の下臣達は、家を奈良に置いたまま、長岡まで通って出仕する者も多かった。民草においてはましてや引っ越してくることもなかったので、これは失策であったと覚られ、現在の平安京を造らせてお移りになられたのである。土地を均し、石を敷き詰め、豊岩真戸、櫛岩窓の神々に祈願して、移られたものの、人の心は往々にして華やかなものに惹かれがちであるから、いつしか臣下の家、御殿の規模も、奈良の旧都の姿に戻されたため、年老いた物知り達は、「賈誼が先の三王朝の昔を偲んで、『政治をお改めになるよう』と進言したのを、賢臣達がお諌め申し上げたのはまったくもって正しかった」と、漢書のその故事が記載されている巻を探し出して、昨今の現状に嘆息したという。
 上皇の退位後の御殿は、若々しく華やいでおり、ひたすら参上する者に、「唐土の書物を読みなさい」と推奨なさる。草書、隷書をよく学ばれて会得され、名筆の数々を遣唐使に持って帰らせた中にあった一枚を、空海をお召しになり、「これを見よ。王羲之の真筆である」とお示しになったところ、空海は降ろして拝見し、「これはこの空海があちらに留学しておりました際に、手習いとして書いたものです。これをご覧ください」と云って、紙の裏を少し削いでお目にかけると、「海の筆」と記してあったため、黙り込んでしまわれ、おそらく妬ましく思われたのではあるまいか。空海は達筆で名高く、五筆和尚と呼ばれたのは、様々な書体を見事に書き分けたゆえであろう。

[春雨物語]『血かたびら』 仲成、これにつきて、「君のおり居は、しばしの御悩みなりと申して、ご即位またあらせたまへ。今上のみ心にたがはば、我、兵衛のかみなり、奈ら山、泉川に軍だちして、稜威しめさん」とぞ申す。 また、市町のわらべがうたふに、...
02/06/2026

[春雨物語]

『血かたびら』

 仲成、これにつきて、「君のおり居は、しばしの御悩みなりと申して、ご即位またあらせたまへ。今上のみ心にたがはば、我、兵衛のかみなり、奈ら山、泉川に軍だちして、稜威しめさん」とぞ申す。

 また、市町のわらべがうたふに、

花は南に先づさくものを

雪の北窓心さむしも

とうたふが、北に聞えて、平城の近臣をめして、推し問はせたまへば、「これは、薬子、仲成らがすすめまゐらす事なり。この春のむ月のついたちに、れいのみ薬まゐらすに、屠蘓、白散をのみすすめて、度嶂散奉らず。『いかに』ととはせしかば、『君、峭壁をこえさせまじきに。奈良坂たひらなれど、青垣山の外の重の山路なり。このみ墻の内だに、ことごとは貢物たてまつらぬ。悲しかなし』とて、涙を袖につつみもらしたり。この時、御前に侍りて聞きしほかは、正しき事しらず侍る。聖代に生れあひて、誰かは兵杖を思ふべき」と申す。

「さらば」とて、すなはち官兵を遣はされて、仲成をとらへて首刎ねさせ、なら坂に梟けさせ、薬子は家におろさせてこめをらす。

 また、み子の高丘親王は、今の帝の上皇のみ心とりて、儲の君と定めたまひしを、停めさせて、「僧になれ」と宣旨あれば、親王、かしらを薙ぎ改名して、真如と申し奉る。三論を道詮に学び、真言の密旨を空海に習ひたまひ、「なほ奥あらばや」とて、貞観三年、唐土にわたり、行くゆく葱嶺をこえ、羅越國にいたり、み心ゆくまで問ひ学びて、帰朝ありしとぞ。「この皇太子のみ代しらせたまはばや」と、みそかには上下申あへりきとなり。

 薬子、おのれが罪はくやまずして、怨氣ほむらなし、ついに刄に伏して死ぬ。この血の帳かたびらに飛び走りそそぎて、ぬれぬれと乾かず。たけき若者は弓に射れどなびかず。剣にうてば刃欠けこぼれて、ただおそろしさのみまさりしとなん。

 上皇には、かたくしろしめさざる事なれど、ただ「あやまりつ」とて、御みづからおぼし立て、みぐしおろし、御齢五十二といふまで、世にはおはせしとなん、史にしるしたりける。



 仲成はこの機に乗じ、「お上が譲位なさるのは、暫くの病気療養のためと仰って、改めて再度ご即位なされてくださいませ。今上帝がご了承なさらないのであれば、私は兵衛督でございます、奈良山、泉川に挙兵し、御威光を知らしめましょう」ときっぱり申し上げた。

 その頃また市中の童が、

花は南にまず咲くものなのに

雪降る北窓はなんて冷たいのでしょうか

と歌っているのが、北の新都に聞こえ、奈良の近臣達を呼びつけ、問い質されたところ、「この歌の真意は、薬子や仲成等が画策しそそのかし申し上げている事でございます。今年の春、一月一日に、恒例のお薬を差し上げた際、屠蘇と白散だけをお勧めし、度嶂散は差し上げませんでした。『どういうことか』と
お訊ねになりますので、『お上が峭壁を越えられることのないように。奈良坂は平らかでございますが、青垣山の外は幾重にも連なる山路でございます。しかもこの大和国内でさえ度々貢物が途絶えております。もう悲しくて悲しくて』と、袖から零れるほどの涙を流しておりました。この時、御前に控えて耳にしました以外は、正確な事は存じません。聖王の御代に生まれついて、誰が戦を企むと云うのでしょう」と申し上げた。

「そうであったか、ならば」と直ぐ様官兵を差し向けられ、仲成を捕らえて首を刎ねさせ、奈良坂に晒し首とし、薬子は実家に下がらせ軟禁となさった。

 同時に、皇子の高丘親王は、今上帝が上皇のお気持ちを慮り、皇太子とお決めになられたのを、撤回され、「僧になれ」とのお達しがあったため、親王は剃髪し改名して、真如と名乗られた。三論を道詮に学び、真言の秘儀を空海に習われ、「更に奥義があるはず」と貞観三年に唐土に渡り、歩きに歩いて葱嶺を越え、羅越国に到達され、思う存分に問い学び、帰朝されたということだ。「この皇太子が即位なさって統べていただきたいものだ」と、上の者も下の者も密かに囁き合ったという。

 薬子は己の罪を一切悔いず、怨恨は焔と化し、遂には刃に伏して死んでしまった。その際の血が几帳の帷子に迸り注がれ、ぬらぬらといつまでも乾かず、猛々しい若者が弓で射ても微動だにせず、剣で切り裂こうとすれば刃がこぼれる体たらくで、ただひたすら恐怖ばかりが募ったという。

 上皇におかれては、まったく預かり知らぬ事であったものの、一言「謬りであった」と仰って、御自ら決心なさって御髪をおろされ、御年五十二歳になられるまでご存命であられたと、史上に記載されている。

[春雨物語]『血かたびら』 奈良坂にて、御ゆふげまゐる。「この手かし葉は、いづれ」ととはせ給ふ。「それはふたおもてにて、心ねぢけたる人にたとへし忌みごとなり。御供つかふまつる臣たち、いかで二おもならん」と申す。「よし」とのたまひて、古宮に、...
30/05/2026

[春雨物語]

『血かたびら』

 奈良坂にて、御ゆふげまゐる。「この手かし葉は、いづれ」ととはせ給ふ。「それはふたおもてにて、心ねぢけたる人にたとへし忌みごとなり。御供つかふまつる臣たち、いかで二おもならん」と申す。「よし」とのたまひて、古宮に、夜に入りて、入らせたまひぬ。

 あした、み簾かかげさせて、見はるかさせたまへり。東は春日、高圓、三輪山、みんなみは鷹むち山をかぎり、西は葛城やたかんまの山、生駒、ふた神の峯々、青墻なせり。「むべもひらけ初めより宮居ここと定めたまひしを、せんだいのいかさまにおぼして、北に遷らせ給ひし」と、ひとりごたせ給ふ。「北は元明、元正、聖武のみ墓立ち並びたまひたり」と申せば、杳にふし拝みしたまへり。大寺の甍たかく、層塔数をかぞへさせ給ふ。城市の家どもも、まだ今の都にうつりはてねば、故さとともあらぬたたずまひなり。

 東大寺の毘盧舎那佛拝まんとて、先づ出させ給ふ、見上げさせたまひて、「思ふに過ぎし御かたちなり。西の国の果てに生れて、この陸奥のこがね花に光そへさせ給ふとぞ。いぶかし」とおほせたまへば、近く参りたる法師が申す。「これは華厳と申す御経にとかせし御かたちなり。如来のへん化、天にあらせれば虚空にせはだかり、また芥子の中にも所えさするよしに申たり。肖像はこゝにも渡せし。み足の裏に開元の年號あるが、三たびの御うつし姿にて、五尺に過ぎさせしをまこととはたのみ奉る」と申す。つゆ御こたへなくて、ただたがはせで物いひたまはず。このご本じやうこそたふとけれ。

 薬子、仲成ら、あしくためんとするには、御烏帽子かたぶけてのみおはすがいとほしき。

 み臺まゐらす。よくきこしをして、「難波の蜑がみつぐは、ここも近きか」とぞ。薬子申す。「かしこに都あらせし帝は、御父の弟み子を立てて日嗣とは定めたまひしかば、神去たまひては、兄み子うちもだし、宇治につかふまつり給ふを、兎遲のみ子は、『我、兄に踰えて登極せん事、聖の道にあらず』とて、譲りたまへど、『否、すでに日嗣のみ子とは、君を定たまひしぞ』とて、三とせまで相ゆづりて、み座むなしかりしかば、弟み子はつひに刄にふして、世をさらせしとぞ。難波の蜑ら、貢ぐ真魚は、をちこちさまよひて、道にくされたりしとぞ。『蜑なれや、おのが物から、もていさつ』となんかたりつたへたる。兄のみ子、いかにせん、み位に昇らせしを、聖王と申たてまつり、御名は世々にありがたく申つたへたりき。君わづかに四とせにており居させたまへば、臣も民も望み失ひて、『かなし』と申とぞ。今の帝は、もろこしのふみ讀みて、かしこの纂ひかはるあしきを、試みさせしよ』と申す。『あなかま』とせいし給ふ。

「いな、ここにつかふまつる臣たちは、今ひとたび、たひらの宮を都として、み位にかへらせん事をこそねぎ奉る」と申す。太弟に心かよはす奈良坂の人もあて、聞きもらし、「あな」とぞささめきたりし。



 奈良坂で御夕飯を召し上がっていただく。その際「この手柏はどちらが表なのか」とお訊ねになられた。「それは表がふたつあるよな葉で、心のねじ曲がった人に喩えられた忌まわしい物です。本日お供を務めて降ります臣下達に、二表があるはずもありません」と申し上げた。「いいね」と仰られ、旧殿に夜になってからお入りになった。

 明くる朝には、御簾を掲げさせ、遥か遠方を眺めておられた。東には、春日、高円、三輪山、南には、鷹鞭村山のみがあり、西は葛城や高天山、生駒、二上山の峰々が青垣を成している。「いかにも、開闢以来、皇居はここにと定められたのはもっともであるのに、先代は如何様に思われて北の方角に遷都なさったのであろう」と、独り言を漏らされた。「北には、元明、元正、聖武の陵墓が立ち並んでおられます」と申し上げると、遥か彼方に向かい伏し拝まれるのであった。大寺の甍は高く、幾つも見える塔の数を数えておられる。市井の家家も、まだ新たな都に移り終えていないので、旧皇居とも思えない佇まいである。

 東大寺の毘盧遮那仏に参拝したいとのことで、まずそちらへ向かわれた。見上げられ、「想像を遥かに超えたお姿をしておられる。西の国の果てにお生まれになり、本朝の陸奥の黄金で光り輝いておられるのとことだが。どうもよく分からない」と仰られたところ、近くに参上した僧が、「こちらは華厳と申します御経に説かれておりますお姿でございます。如来の変化は、天空にいらっしゃる時には虚空を埋め尽くし、同時に芥子粒の中にも存在可能と聞いております。肖像はこの国にも渡来しました。お御足の裏に開元の年号が刻まれておりますが、釈尊には三種の肖像があり、五尺弱の物が実物であると承っております」と申し上げた。何らお答えになることもなく、特に反論もなさらないまま口を噤んでおられた。この生まれ持った御気性こそ尊いものではないか。

 薬子、仲成等が、邪悪な方へと弄り回そうとするものの、ただ御烏帽子を傾けてやんわりと否まれるのがなんとも愛おしい。

 お食事をお持ちする。よくお召し上がりになり、「難波の海女が貢ぐのは、この辺りか」と訊ねられた。薬子がこう申し上げる。「難波に都をお造りになられた帝は、父帝が弟皇子を立てて御世継ぎ定められましたので、父帝がお亡くなりになられた後も一切ご不満を漏らさず、宇治の皇子にお仕えなさっておられましたのを、当の宇治の皇子が、『私が兄を飛び越えて即位する事は、聖人の道ではない』と仰って、ご辞退なさったのですが、『いやそれは違う、すでに父帝は君の事を世継ぎの皇子と定められたのだから』と申されて、三年もの間譲り合い、空位となってしまったため、とうとう弟皇子は刃に伏してこの世を去られたと聞いております。難波の海女達が貢ぐお魚は、どちらにお持ちすればよいなが逡巡しておりますうちに道中で腐ってしまったとのことです。『海女ならまだしも、自分の物にもかかわらず、持て余して泣きたくなる』そうこぼされたと語り伝えられております。兄の皇子は致し方なく、帝の位にお就きになられましたが、人々は聖王と崇め奉り、その御名は後の世まで稀有なるお方と伝えられました。貴方様はたった四年で御位を退かれてしまわれましたので、臣下も民草も失望し、『なんと悲しい』と申しております由。今上帝は、唐土の書物を読み耽り、あちらの位簒奪の悪しき例を遂行なさったのでございますよ」と云ってのけた。それを「これ聞こえるぞ」と制止なさる。

「いいえ、ここにお仕えいたしております臣下達は、今一度、平城京を都とし、再び帝の御位にお就きになられることを心からお願い申し上ております」と強く進言した。太弟に密かに肩入れする奈良坂の人も中にはいたので、「おやまぁ」とこっそり耳打ちし合ったということだ。

[春雨物語]『血かたびら』 空海、あした参る。問せたまへるは、「三皇五帝は遠し。その後の物がたり申せ」となん。空海申す。「いづれの國か教へに開くべき。三隅の網、一隅我に来たれ」といひしが、私の始なり。ただただ、み心の直くましませば、ままにお...
29/05/2026

[春雨物語]

『血かたびら』

 空海、あした参る。問せたまへるは、「三皇五帝は遠し。その後の物がたり申せ」となん。空海申す。「いづれの國か教へに開くべき。三隅の網、一隅我に来たれ」といひしが、私の始なり。ただただ、み心の直くましませば、ままにおぼし知たまへとこそ。日出て興き、日入て臥す。飢ゑてはくらひ、渇してのむ。民の心にわたくしなし」とぞ。うちうなづかせ給ひて、「よしよし」とみことのらす。

 太弟参りたまへり。御物がたり久し。のたまはくは、「周は八百年、漢四百年、いかにすればか長かりし」とぞ。太弟、さかしくましませば、み心をはかりてこたへたまはく。「長しといへども、周は七十年にてやや衰ふ。漢家もまた、高祖の骨いまだ冷えぬに、呂氏の乱おこる。つゝしみの怠りにもあらず」と答たまふ。「さらば天の時か。天とは日々に照しませる皇祖のみ國なり。儒士ら、『天とは即ちあめを指すか』と聞けば、『命禄なり』といふ。また数のかぎりにもいへり。これは多端なり。佛氏は、『天帝も我に冠かたぶけて聽せたまふ』と申す。あな煩はし」と。太弟、御こたへなくて、まかん出たまへり。

 あした、み國ゆづりの宣旨くだる。故さととなりし平城におり居させたまはんとぞ。元明よりせん帝にいたるまで、七代の宮所なりしかば、昔は宮殿のありしさまを、「咲く花のにほふかごとく今さかりなり」とよみしをおぼし出でたまひ、そこにと定たまへりき。

 日をえらびて、けふ出させたまへり。宇治にいたりて、鸞輿しばしとゞめさせて、河づらをながめて、おほんよませ給へる。

もののふよこの橋板のたひらけく
かよひてつかへ萬代までに

これをうた人ら、七たびうたひ上ぐる。「網代の波はけふ見ねど、千代ちよと鳴鳥は河洲に群れゐるを」とて、また御かはらけめす。薬子、れいに捧ささげまゐらす。「所につけてよめ」と、おほせたうぶ。薬子、先づよむ。

朝日山にほへる空はきのふにて
衣手さむし宇治の川波

と申せば、「河風はすずしくこそ吹け」とて、うちゑませたまふ。左中将藤原の惟成よむ。

君がけふ朝川わたるよど瀬なく
我はつかへん世をうぢならで

兵部太輔橘の三継よむ。

妹に似る花としいへばとく来ても
見てましものを岸の山吹

「それは橘の小島が崎ならずや。飛鳥の故さとの草香部の太子の宮居ありし所よ」と、おほせたまふ。なほ多かりしかど忘れたり。



 翌朝、空海が参内した。お訊ねになられたのは、「唐土の三皇五帝は遥か遠い昔の話だ。その後の逸話を話せ」とのことだった。空海はこう申し上げた。「どの国であろうと過去の教えに従って国を開くものではありません。『四隅のうち三隅の網を解く、残る一隅より来る者のみ私についてこい』と殷の湯王が云いましたのが、そもそも政の私物化の始まりです。ただただ御性質が実直でいらっしゃるのですから、御心のままに振る舞われますようご納得いただきたく存じます。日が昇れば起き、沈めば寝る。飢えたら喰い、喉が渇けば飲む。民の心には私欲がありません」と。帝は何度も頷かれ、「よくわかった」とだけ仰られた。

 太弟も参内された。お話なさるのも久し振りのことだ。帝がこう仰られた、「周は八百年、漢は四百年、どうすればかように長く続くのであろうか」と。太弟は聡明でいらっしゃるので、御心の内を忖度し、「長いと申しましても、周は七十年目にして若干衰退いたしました。漢王朝もまた、高祖劉邦の骨がまだ冷めきらぬうちに、呂氏の乱が起こりました。これらは決して身を慎むことを怠った結果ではありません」とお答えになった。すると「であるなら、天の配剤か。天とは、日々我々を照らしてくれる天照大御神の国のことだ。儒者等に、『天とはすなわち天空のことを指すのか』と訊くと、『生まれ持った星巡りのことでございます』と云う。また運気だとも云う。これではあまりに広範ではあるまいか。一方僧達は、『私共の読経には天帝も冠を傾けてお聞きになられます』と申す。ああ鬱陶しい」と漏らされた。太弟は何もお答えにならず、退出されてしまわれた。

 明朝、神野親王に譲位なさる宣旨が下った。退位なさって以降は、かつて都があった奈良にお住まいになられるという。元明天皇より先代に至るまでの間、七代の宮廷が置かれていたので、その昔は宮殿の威容を、『咲き誇る花が香るがごとく今が盛りの時期でございます』と詠んだ者がいたのを思い出され、そこに住まおうとお決めになられたのであった。

 吉日を選定し、今日皇居をお出になられた。宇治に到着すると、しばし御輿をお止めになり、川面を眺め、御製をお詠みになった。

武士達よ、この橋板が平なように、真っ直ぐ通い末代まで仕えてくれ

これを歌人等は七度詠い上げた。「網代の波は今日は見えないが、千代千代と鳴く鳥は川洲に群れておるではないか」とのことで、またしても盃を手に取られた。薬子は例によって御酒を差し上げる。「所に因みなんぞ詠んでみよ」とお命じになる。薬子がまず詠んだ。

香しい朝日に照らされた空は昨日までのこと、今や宇治川の波風が衣を震わし寒寒しく吹いております

と申し上げれば、「川風は涼しく吹くからこそよいのだ」と微笑まれる。左中将藤原惟成が続いて詠んだ。

お上が今朝渡られる川は淀んでおりますが、私は末代まで憂しとも思わずお仕えいたします

兵部大輔橘三継も詠む。

愛しい人に似ている花と云うのですから、早く来て見ればよかったですね、岸の山吹を

「その山吹の歌は橘の小島が崎を詠んだ歌ではなかったかな。あそこは飛鳥の古都草壁皇子の宮殿があった所よ」と仰られる。その後も数多くの歌が詠まれたが、忘れてしまった。

[春雨物語]『血かたびら』  太弟の才學長じたまふを忌みて、みそかにしらし奏する人もありけり。みかど獨ごたせ給ふ。「皇祖の尊、矛とりて道ひらかせ、弓箭みとらして仇うちしたまふより、十つぎの崇神の御時までは、しるすに事なかりしにや、養老の紀に...
28/05/2026

[春雨物語]

『血かたびら』 

 太弟の才學長じたまふを忌みて、みそかにしらし奏する人もありけり。みかど獨ごたせ給ふ。「皇祖の尊、矛とりて道ひらかせ、弓箭みとらして仇うちしたまふより、十つぎの崇神の御時までは、しるすに事なかりしにや、養老の紀に見るところ無し。儒道わたりて、さかしき教へにあしきを撓むかと見れば、また枉て言を巧みにし、世々さかゆくまゝに静かならず。朕はふみよむ事うとければ、たゞ直きをつとめん」とおぼす。

 一日、太虚に雲なく、風枝を鳴さぬに、空にとゞろく音す。空海参りあひて、念珠おしすり呪文たからかにぞとなふるに、すなはち地に堕たり。あやし、蛮人車に乗てかけるなり。捕へて櫃にこめ、難波穿江に沈めさせ、忌部の濱成、おちし所の土三尺をほらせて、神やらひおらび聲高らかなり。

 一日、皇太弟柏原のみさゝぎに参りて、密旨の奏文さゝげまつらす。何のみ心とも、誰つたふべきにあらず。天皇も、一日、みはかまうでし給ふ。百官百司、みさき追ひ、あとべに備ふ。左右の大将、中将、御車のをちこちに、弓矢取しばり、御はかせきらびやかに帯びたまへり。百取の机に幣帛うづまさにつみはえ、堅樹の枝に色こきまぜてとり掛けたる。神代の事もおもはるるなりけり。雅楽寮の左右の人々立なみて、三くさの笛、鼓の音、「面白し」と、心なきよぼろさへ耳傾たりけり。

 怪し、うしろの山より、黒き雲きり立ち昇りて、雨ふらねど、年の夜のくらきにひとし。いそぎ鳳輦にて、我も我もと、あまたのよぼろらのみならず取つぎて、左右の大中将つらを乱してそなへたり。

「還御」、たからかに申せば、大伴の氏人開門す。「御常にあらじ」とて、くす師らいそぎ参りてみ薬調じ奉るに、かねておぼすみ國譲りのさがにやとおぼしのどめて、さらに御なやみ無し。

 御かはらけ参る。栗栖野の流れの小鰷に、ならびの丘の蕨とりくはへて、鱠や何やすゝめたいまつる。みけしきよくてぞ、夜に月出で、ほととぎす一、二聲鳴きわたるを聞せたまひて、大とのごもらせたまひぬ。



 太弟の学識が高いのを忌み嫌い、こっそり悪口を吹き込み申し上げる人もいた。帝は独り言を漏らされる。「皇祖の尊が、矛を取って道を拓かれ、弓矢をお持になって仇敵を討たれてからというもの、十代の崇神天皇の御代までは、特筆すべき出来事もなかったのか、日本書紀にはなんの記述もない。儒教が渡来し、賢明な教えにより悪を糺すかと見えたのに、そのうち捻じ曲げて言葉巧みに広めてゆくにつれ着々と勢いを増しているにもかかわらず、世情は一向に鎮まらない。私は書物を繙くのが苦手だから、ひとえに実直を心掛けてゆこう」と思われておられた。

 そんなある日、天空に一片の雲もなく、風が枝を鳴らすこともないのに、空に轟く音がした。折しも空海が参内し、念珠を擦り合わせながら声高らかに呪文を唱えていたところ、ややあって何かが地に堕ちた。胡乱だ、蛮人が車に乗って駆けておる。捕らえて櫃に押し込め、難波の入江に沈めて、忌部の浜成に墜落した所の土を三尺掘らせ、悪霊退散の叫声は朗々と響き渡っていた。

 またある日には、皇太弟が柏原の陵墓に参拝し、内密の奏文を捧げ奉った。いかなる想いが籠められていたかは、誰一人知るべくもない。

 天皇も、とある日に御墓を参拝なさった。数え切れぬほどの官人達が先導し、しりえの警備にあたった。左右の大将、中将が、御車の前後左右に、弓矢を鷲掴みにし刀を佩いて控えていた。供物机に品品をうず高く積み上げ、榊の枝に千紫万紅の幣を結わえ付けている光景は、神代の場面を髣髴とさせるものがあった。雅楽寮の楽人達が左右に居並んで奏でる三種の笛、鼓の音を、「惚れ惚れする」と朴念仁の下人さえもが魅了されていた。

 その時、面妖にも後ろの山から黒雲がむらむらと立ち昇り、雨こそ降らないものの、大晦日の暗さと大差なくなった。大至急お帰りになられると、我も我もと有象無象の下人達のみならず鳳輦にしがみつき、左右の大将、中将は決死の形相で護衛に当たっていた。

「還御」、と高らかな声が響き渡ると、大伴氏の一人が門を開ける。「御不例である」とのことで、薬師等が速やかに参内し御薬を調合して奉ると、かねてから考えている譲位の前触れに違いないと得心なさって、それ以上悪くなられることはなかった。

 御盃が献上された。栗栖野の清流の小鮎に、双が岡の蕨を摘んで麗しく盛りつけ、膾な何やかやをお勧め申し上げる。ご気分もすっかり快復され、夜には月も出、時鳥が一声二声鳴き渡るのをお聞きになり、ご就寝あそばされた。

[春雨物語]『血かたびら』 天のおし国高日子の天皇、ひらけ初めより五十一代の大まつり事きこしめしたまへば、五畿七道水旱無く、民腹をうちて豊としうたひ、良禽木を選ばず巣くひて、大同の佳運、紀伝のはかせ字をえらびて奏聞す。 登極あらせてほどもな...
25/05/2026

[春雨物語]

『血かたびら』

 天のおし国高日子の天皇、ひらけ初めより五十一代の大まつり事きこしめしたまへば、五畿七道水旱無く、民腹をうちて豊としうたひ、良禽木を選ばず巣くひて、大同の佳運、紀伝のはかせ字をえらびて奏聞す。

 登極あらせてほどもなく、太弟神野親王を、春の宮つくらして、遷させ、これは先だいの御寵愛殊なりしによりてなりけり。太弟聰明にて、君としてためしなく、和漢の典籍にわたらせたまひ、草、隷もろこし人の推いたゞき乞ひもてかへりしとぞ。

 この時、唐は憲宗の代にして、徳の隣に通ひ来たり、新羅の哀荘王いにしへの跡とめて、数十艘の貢物たてまつる。

 天皇、善柔のさがにましませれば、はやく春の宮にみ位ゆづらまく内々さたしたまふを、大臣、参議、「さる事、しばし」とて、推とどめたてまつる。

 一夜、夢見たまへり。先帝のおほん、高らかに、

けさの朝け鳴くなる鹿のその声を
聞かずはゆかじ夜のふけぬとに

うち傾きて、御歌のこころおぼししりたまへりき。

 またの夜、先だいの御使ひあり。「早良の親王の霊、柏原のみ墓に参りて罪を謝す。ただ、おのが後なき事をうたへなげく」と申て使ひは去りぬ。これはみ心のたよわさにあだ夢ぞとおぼししらせたまへど、崇道天皇と尊號おくらせたまひき。

 法師、かんなぎら、祭壇に昇りて加持まいらせ、はらへしたり。侍臣藤原の仲成、いもうとの薬子ら申す。「夢に六のけぢめをしふ。よきあしきに数定まらんやは。み心の直きにあしき神のよりつくぞ」と申して、出雲の広成におほせて、み薬調ざせたいまつる。また、参議の臣たちはかり合はせて、ここかしこの神やしろ、大てらの御使ひあり。

 また、伯岐の国に世をさけたる玄賓召して、御加持まゐらす。この法師は、僧都になし昇したまひしかど一族弓削の道鏡が暴悪をけがらはしとて、山深くここかしこに住みて行ひたりけり。七日、朝廷に立ちて妖魔をやらひしとて、「御いとまたまはれ」と申す。み心すがすがしくならせ給ひしかば、「なほ参れ」とみことのらせしかど、思ふところやある、またも遠きにかへりぬ。

 仲成、外臣を遠ざけんとはかりては、薬子と心あはせ、なぐさめたいまつる。よからぬ事もうちゑみて、これが心をもとらせ給ひぬ。よひよひの御宴のうた垣、八重めぐらせ遊ばせたまふ。御製をうたひあぐる。その歌、

さを鹿はよるこそ来なけおく露は
霜結ばねば朕わかゆなり

御かはらけとらせたまへば、薬子扇とりて立ちまふ。「三輪の殿の神の戸をおしひらかすもよ。いく久、いく久」と、袖かへしてことほぎたいまつる。みこゝろすがすがしく、朝まつり事怠らせ給はず。



 天推国高彦こと平城天皇が、皇朝開闢から数えて五十一代の大政をお執りになられたので、五畿七道に旱魃もなく、民草は腹を打って豊穣の歌をうたい、優秀な官僚達が朝廷に結集して、あらゆる物事がめでたく運ぶ巡り合わせとのことで、紀伝の博士達は瑞祥の字を撰び大同という年号を建言した。

 即位なされてから程なくして、太弟神野親王を東宮の御殿を新たに造らせて住まわせたが、これは先代の桓武天皇が親王をご寵愛なさっておられたのを慮ってのことであった。太弟は聡明で、君主としてかつてないほど和漢の書物に通じておられ、書かれた草書、隷書を唐人達がこぞって押し頂き国へ持ち帰ったという。

 この頃、唐は憲宗の時代で、徳と共にある親王を敬仰し、新羅の哀荘王の顰に倣い、船十数艘分の供物を献上した。

 天皇は善良で柔和なお人柄でいらっしゃったため、早めにこの親王に御位を譲られたい旨、内々に漏らしておられたが、大臣、参議達は、「その事につきましては今しばらくお待ちを」と敢えて押し留め申し上げていた。

 或る夜、夢をご覧になられた。夢の中で先帝の御製が高らかに響き渡り、

明日の朝、鹿の鳴き声を聞かぬまではここを立ち去らないでいよう、すっかり夜も更けたけれども

深く想いを巡らされ、御製の真意に気付かれたのであった。

 また別の夜には、夢の中に先代の使者が出て来た。「早良親王の御墓に参り謝罪した。ただ私亡き後にそういった気遣いがないので悲嘆に暮れている」と申し伝えて使者は去っていった。これらは自分が軟弱ゆえに観てしまうつまらぬ夢だと得心なさりつつも、早良親王に崇道天皇の尊号を贈られたのであった。

 法師や御巫等が、祭壇に昇り加持祈祷を捧げ、入念に祓い清めた。侍臣藤原仲成と妹の薬子らが、「夢には六種類あると申します。夢の良し悪しだけで何が決まるというのでしょうか。お心があまりに真っ直ぐですと、悪い神も取り憑きましょう」と申し上げ、出雲広成に命じお薬を調合させ献上した。他にも、参議の臣下達は示し合わせ、そこかしこの神社仏閣に使者を遣わした。

 また、伯耆の国に隠棲していた玄賓を召し出し、加持祈祷を執り行わせた。この法師は、かつて僧都の位に昇っておられたが、一族の一人弓削道鏡の傍若無人な悪行を汚らわしいと厭われ、あちこちの山奥に籠もり修行三昧の日々を送っている。七日の間、宮中にて仁王立ちし妖魔を退散させたとのことで、「御暇を賜りたく存じます」と申し上げた。すっかり晴れ晴れとした気分になられたので、「これからも参内せよ」とのお言葉があったが、何やら思うところがあるらしく、またしても遠い伯耆に帰ってしまった。 

 仲成は、一味に属さない廷臣を遠ざけようと画策して、薬子と共謀し、慰め申し上げる。好ましくない事にも微笑んでおられ、彼等の心に沿うようになさっておられた。夜毎の歌舞の宴では、大勢の男女を侍らせて遊ばれていた。御製を謳い上げる。その歌は、

牡鹿はきっと夜が来れば鳴くのであろう、それでもまた露は霜となってはいない、私は若々しく振る舞うことにしよう

御盃をお取りになると、薬子は扇を手に立って舞った。「三輪の神殿の戸を押し開かれたのですね、末永く、末永く」と、袖を翻して寿ぎ奉る。御心は何処までも清々しく、朝廷の政務が怠るようなことは一切なかった。

[春雨物語]序本文春雨物がたり はるさめけふ幾日、しづかにておもしろ。れいの筆、すずりとう出たれど、思ひめぐらすに、いふべき事もなし。物かたりざまのまねびはうひ事なり。されど、おのが世の山がつめきたるには、何をかかたり出でん。 むかしこのこ...
22/05/2026

[春雨物語]



本文

春雨物がたり

 はるさめけふ幾日、しづかにておもしろ。れいの筆、すずりとう出たれど、思ひめぐらすに、いふべき事もなし。

物かたりざまのまねびはうひ事なり。されど、おのが世の山がつめきたるには、何をかかたり出でん。

 むかしこのころの事どもも人に欺かれしを、我、また、いつはりとしらで人をあざむく。よしやよし、寓ごとかたりつづけてふみとおしいただかする人もあればとて、物いひつづくれば、なほ春さめはふるふる。



春雨物がたり

 春雨も今日で幾日になるだろうか、辺りが静まり返って風情がある。愛用の筆と硯を取り出したけれど、あれこれ思い巡らすものの、特段書くべき事もない。

 物語風のものを書くのは実は初めての事なのだ。とは云え、この無知蒙昧な山の民もどきの日々を生きる自分が、何を語れるというのだろう。

 昔も今も様々な出来事について人に欺かれてきたが、私自身がまた嘘っぱちとも知らずに人を欺く。まぁいいじゃないか、絵空事を語り続けてこれぞ正しい記録だと拳拳服膺させる人もいるのだからと、つらつら認めている間も、春雨はしきりに降り続いている。

[雨月物語]貧福論 いくたびもいふ、不徳の人のたからを積むは、これとあらそふことわり、君子は論ずる事なかれ。ときを得たらん人の、倹約を守り つひえを省きてよく務めんには、おのづから家富み人服すべし。我は仏家の前業もしらず、儒門の天命にも拘ら...
20/05/2026

[雨月物語]

貧福論

 いくたびもいふ、不徳の人のたからを積むは、これとあらそふことわり、君子は論ずる事なかれ。ときを得たらん人の、倹約を守り つひえを省きてよく務めんには、おのづから家富み人服すべし。我は仏家の前業もしらず、儒門の天命にも拘らず、異なる境にあそぶなり」といふ。

 左内いよいよ興に乗じて、「霊の議論きはめて妙なり。旧しき疑念も今夜に消じつくしぬ。試みにふたたび問はん。今、豊臣の威風四海を靡し、五畿七道漸しづかなるに似たれども、亡国の義士彼此に潜み竄れ、或は大国の主に身を托せて世の変をうかがひ、かねて志を遂げんと策る。民も又戦国の民なれば、耒を釈てて矛に易へ、農事をこととせず。士たるもの枕を高くして眠るべからず。今の躰にては長く不朽の政にもあらじ。誰か一統して民をやすきに居らしめんや。又誰にか合し給はんや」。

 翁云ふ、「これ又人道なれば、我がしるべき所にあらず。只、富貴をもて論ぜば、信玄が如く智謀は百が百的らずといふ事なくて、一生の威を三国に震ふのみ 、しかも名将の聞えは世挙りて賞する所なり。その末期の言に、『当時信長は果報いみじき大将なり。我平生に他を侮りて征伐を怠り、此の疾に係る。我が子孫も即て他に亡されん』といひしとなり。謙信は勇将なり。信玄死しては天が下に対なし。不幸にして遽く死りぬ。信長の器量人にすぐれたれども、信玄の智に及かず、謙信の勇に劣れり。しかれども富貴を得て、天が下の事一回は此の人に依す。任ずるものを辱しめて命を殞すにて見れば、文武を兼ねしといふにもあらず。秀吉の志大いなるも、はじめより天地に満つるにもあらず。柴田と丹羽が富貴をうらやみて、羽柴といふ氏を設けしにてしるべし。今龍と化して太虚に昇り、池中をわすれたるならずや。秀吉龍と化したれども、蛟蜃の類也。『蛟蜃の龍と化したるは、寿わづかに三歳を過ぎず』と。これもはた後なからんか。それ驕をもて治めたる世は、往古より久しきを見ず。人の守るべきは倹約なれども、過ぐるものは卑吝に陥つる。されば倹約と卑吝の境よくわきまへて務むべき物にこそ。今、豊臣の政久しからずとも、万民和ははしく、戸々に千秋楽を唱はん事ちかきにあり。君が望みにまかすべし」とて、八字の句を諷ふ。そのことばにいはく、

尭蓂日杲

百姓帰家

 数言興尽きて、遠寺の鐘五更を告ぐる。夜既に曙けぬ。別れを給ふべし。今夜の長談、まことに君が眠をさまたぐ」と、起ちてゆくやうなりしが、かき消して見えずなりにけり。

 左内つらつら夜もすがらの事をおもひて、かの句を案ずるに、百姓家に帰すの句、粗其の意を得て、ふかくここに信を発す。まことに瑞草の瑞あるかな。



 何度でも云いましょう。徳のない人が大金持ちになるのは、これと真逆の道理なのです、つまり君子は富貴を論じてはならない。時代の波に乗り、倹約に努め無駄な出費を省いて一所懸命正業に勤しめば、自然と家は富み栄え人も服従するでしょう。私は仏教の云うところの前世の因縁も知りませんし、儒教の教える天命とも無関係です、それらとは次元の違う立場で勝手気ままに行動するのです」と云った。

 左内はますます興が乗り、「霊に関する理論は極めて精妙です。長年抱えておりました疑念も、今夜跡形もなく消えました。試しにもう一度問いましょう。昨今、豊臣の威風は四海に靡き、五畿七道はようやく静まり返ったかのように見えますが、滅ぼされた国々の忠臣達が地下に潜り、或いは大国の大名に身を寄せて世の動静を窺い、かねてからの志を遂げんと画策しております。民もまた戦国の世の民ですから、鋤を捨てて矛を取り、農業を放擲しています。武士たるもの、枕を高くして眠るべきではありません。現状を鑑みますと、このままの政治がいつまでも続くとは到底思えません。誰がこの乱世を統一し民に平穏を齎してくれるのでしょうか。そしてまた貴方は誰に肩入れなさいますか」。

 翁は答えて、「これもまた人間世界の動向ですから、私の預かり知らぬ事です。ただ、富貴の観点から云うなら、信玄のような知略は決して百発百中というわけではなく、彼の一生の威勢は甲斐、せいぜい信濃、上野の三国に及ぶだけでしたけれども、名将との聞こえは世の人々がこぞって賞賛するものでした。信玄の末期の言葉に、『当節信長はほんとうに幸運に恵まれた大将である。私は長らくずっと彼を侮り征伐を怠っているうちに、こうして病に罹った。我が子孫達も遠からず彼に滅ぼされるであろう』と語ったとのことです。謙信は勇猛な武将です。信玄亡き後は、天下に並び立つ者はいませんでした。ただ不幸なことに早死にしてしまいました。信長の器量は人より抜きんでているとはいえ、信玄の智慧には及ばず、謙信の勇猛よりも劣っております。しかしながら富貴を得、天下の政局は、一度は彼の手に委ねられました。しかし任命した臣下を辱めその者に命を奪われたという最期を見れば、文武を兼ね備えた武将というわけではありません。秀吉の志は実に雄大ですが、端から天下を掌握するほどの人物ではありませんでした。柴田と丹羽の富貴を羨み、羽柴という苗字を新設したことからも推して知るべしでありましょう。今や龍となり天空へと昇り、そもそもの栖である池中を忘れてしまったのではないでしょうか。秀吉は龍に化けましたが、所詮は蛟蜃の類に過ぎません。『蛟蜃が龍に化けたものの命は、せいぜい三年に過ぎない』というわけです。秀吉もまた子孫は途絶えるでしょうね。あのように驕慢な心で治めた世は、太古の昔より長続きしたためしがありません。人が遵守すべきは倹約ではありますが、それも度が過ぎれば卑しい吝嗇漢に落ちぶれます。ですから倹約と卑吝の境目をよくよく弁えて倹約に務めねばなりません。今や、豊臣の政治は風前の灯とはいえ、人民は平和を謳歌し、家家で『千秋楽』を歌って祝う日もそう遠くはないです。では貴方様のご希望に添いまして」と、八字の句を謳った。その言葉とは、

堯冥日杲
(堯帝の時代、瑞草が生え日々の平和が続いた)

百姓帰家
(百姓達は健やかな気分で仕事を終え家に帰る)

 とめどなく興が乗って語り尽くし、遠い寺の鐘が午前四時を告げた。「夜もすっかり明けました。御暇を頂戴いたします。今宵の長話、まことに貴方様のお眠りを妨げてしまいました」と、立ち上がってゆくかの姿が、ふっと掻き消えて見えなくなってしまった。

 左内はつらつらと夜もすがらの遣り取りを思い返し、かの句のことを考え倦ねていると、百姓家に帰すの句について、ほぼその真意を覚り、あの精霊が云った事を深く信じるに至った。まことにもって瑞草の兆しと思える句であった。

住所

神奈川県中郡大磯町生沢592/5
Oiso-Machi Naka-gun, Kanagawa
259-0102

営業時間

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